手をつなごう
手をつなごう (JUGEMレビュー »)
そら
大切な人へ想いを届ける、幸せの茶色いクマ「プロポーズベア」待望の絵本第一弾

ノースベースホームページ佐田 慎介ブログ

 

*しろくまくんtwitter*

*くろくまくんtwitter*

宮城取材2

今日で震災から3年という月日が経ちました。

この日記は、昨年3月の取材のメモを元に作成していますので、一年のうちに変わった所も色々とあると思います。震災から2年の状況の手記としてご覧いただければと思います。



前回の日記からとうに年をまたいでしまいましたが、それでも、短い文章で終わらせたくなく、細かく書こうとしています。こんなペースではありますが、自分なりに感じた事や、教えていただいた事、忘れずにいる為、ここに記しておこうと思います。



宮城取材1はこちらです→http://blog.sora-office.com/?eid=1763

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



宮城取材2




2013年3月震災から2年。


がれきは大分取り除かれていた。



けれど





今の状況はほんの入り口に過ぎなかった。





取り除かれたがれきの後に、


山積みの問題が、考えが、葛藤があるという事を知った。



 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



アナウンサーは、滑舌が良い。


とにかくはっきりとした口調で、


ワントーン上がった声は、話の中に良い強弱と


引き締めがあって、聞きやすく解りやすい。



このバスには、そんな語り部が

バスガイドの「マナティーさん」の他に2名乗車していた。



この企画の主催者でもあるU型テレビアナウンサーの大村正樹さん。

そして東北放送アナウンサーの大井健郎さんがご一緒してくれました。

ここからマイクをバスガイドのマナティーさんからバトンタッチして


アナウンサーの大井さんからお話を伺った。



大井さんは周りの景色について語ってくれた。


「この辺も地盤沈下が70センチ〜1メートル近くもありました。

水産加工場はいち早く立ち上がったが、それも、もどったのはまだ3割程度。


民間企業の立ち上がりが遅れているのが実情で、

観光としての復興は割合的にほぼ0に近い状況。


つまり規模的にも、金銭的にも、体力のある企業だけが戻っている状況です。」







そんなに進んでいなかったのか、、



バスの中に事実を知る空気が漂った。






そして波がどこで被害を分けたのかが、



バスの窓の外に広がる光景が物語っていた。



石の塀、




10メートルほどか、



それくらいの



高さ。





下の方には




たくさんの家々があったであろう事がわかる




「家の土台」が




至る所に残されていた。








「この土台が撤去されていないのはなぜだろう?」




なぜか?



それは





「金額が違うんです。土台から上の部分は、ある程度の予算で取り壊せる。取り除ける。



でも土台の撤去は高いのです。」





知らなかった現実の応えが


意味をもってそこにあった。




「窓の外の海岸の壁を見てください。波を防ぐ為に作られています。」




黒い壁のようなものが、




水平線のぎりぎりまで作られていた。







「津波を少しでも防げる様に、

今ものすごく高い高いスーパー防潮堤をつくる案も出ているんですが


これについて、


今はまだ決着がついていないのです。


なぜなら、人の命は守れても、


町は守れないのではないのかという話が出ているからです。」



どういうことか?



海を見る事もできない町になってしまっては、その魅力を失うのではと懸念の声が大きいからだ。



つまり観光地としての機能がしなくなるという問題だ。



「命を守れるならその方が良いのではないか?」




という意見ももちろんある。


でも、考えてみるとわかる、港町は観光がメインで動くものも多く、そこで働く人も多い。


そこから収入を得ていた人が稼げなくなり、


町を一人はなれ、二人はなれし、結局黒々と高い防潮堤だけが残る。


お年寄りなど、体力的経済的に動けない人だけが残ったまちになる。




町が、



波ではないものに、



少しずつ蝕まれる。




観光客離れを懸念して、ホテルなども、


土木作業員、報道陣、ボランティアの方の泊まる施設と、


観光客との棲み分けも始めるなどの工夫がなされていた。



長靴のどろ一つ、観光客への配慮を考える。



そうして復興が遅れれば、それだけ観光としての動きも遅れてしまう。



大井さんは本当に細かな質問にも、そして、細かな部分にも

とても丁寧に、そして分かりやすく私たちに教えてくれた。


なぜそこにそれがあり、なぜそれは進まず、なぜ解決ができないのか。

取材をする人は、本当に細かな情報まで徹底的に調べ上げている。


分析をし、最後に自分の意見を持つ。それを断定するではなく、

皆にも問いかける。





ほどなく、バスは美しい港に到着した。


気仙沼港。







本当に美しい、映画の舞台になりそうな素敵な港だった。



ここは、被災したのかどうかも分からないくらいきれいだった。












けれどバスを降りる前にガイドさんが教えてくれた










「「いらっしゃいませ」と書かれた所まで津波がきた。」


と。



中に入ると活気にあふれていて、


私も皆も、昼食をとり、サメを使った「復活バーガー」や


海鮮丼を食べ、牛タンや、ずんだもちのお土産をたくさん買った。



中学生も、高校生も、日々のおこずかいをこの日使う為に持って来ていた。



水産、そして観光がメインになっている港町。




黒々としたスーパー堤防の事が頭をよぎる。



そして、命運を分けた石の塀の高さが頭をよぎる。







今は活気にあふれたこの店内も


入り口に被災時の写真があった。






今活気に溢れてる店内も、海水や泥や、壊れたがれきに埋もれていた。






ここまで元気になったのが私たちに少しだけ安堵をもたらしてくれた。







それからバスは「ししおりちく」という所へやってきた。




波が


町に覆いかぶさり、



波が引いた時には、この船を残してしまった。








船の持ち主の方は、この船を撤去して欲しいと訴えている。

近所の人も、見る度につらいから撤去して欲しいと話している。

津波の現実を知ってもらいたいから残しておきたいという町の声もある。





お金がかかるから、撤去出来ない町の家々の土台の中に


お金ではない問題で撤去するかしないか議論が続けられている船が




そこにあった。








近所には、残った家々から、朝起きても、


日が暮れても、この船が見える。


その度に、心が痛む。


あの日が消えない。



心に復興がもたらされない。



船の持ち主の方も、本当につらいままとなる。


それだけではない。


広島の原爆ドームの様に、だれかがピースサインして写真を撮る日が来てしまったら、


そこに、この船を残した意味は、薄れるのではないか、


町の心の傷はもっと深くなってしまうのではないかと言われている。





(※この後同年9月から解体作業がおこなわれました。)




私たちは言葉を失いながら、




口に出す言葉を、




心のいき場所を探していた気がする。



そうしてバスはまた、私たちを乗せて走り出した。





つづく


※(※)意外は2013年6月頃の取材当時の情報です。